人づきあい,  自分づきあい

共感しても同調しない

私が本当に心地よくいることは自分の責任。

それが一番大切な自分の仕事。

本当の意味で心地よくいるときは、周りの人も自然に心地よくなるもので、自分ひとりが気持ち良ければ周りがどれほど迷惑でも関係ないというものじゃない。

でも、相手が苦しんでいたり、悲しんでいたり、辛い思いをしているとき、自分だってうれしくない。

世の中にはひどいことや悲しいことがたくさんあふれているのに、それに目をつむって、自分ばかり心地よくいることに集中しているのは、自己中心的ではないのか?人が苦しいときに、自分が幸せでいることに集中しているのは冷たい?何かしてあげないといけないんじゃないか?

そんな風に、無意味に罪悪感を感じがちなのはどうしてだろう。

罪悪感って何だ?私のせいでこの人は辛い思いをしている、とか、私がもっとこうしてあげたら、この人はもっと幸せになれるかもしれないのに。でも、その裏には、私がしていない、あるいは私がしていることが相手の人の幸せを左右してしまうほどに、その人が無力な存在だと思っているのではないか?

罪悪感って実は傲慢かも。

私ができることは、自分の中を整えることしかないのに。自分の中を整えることでやっと相手の力になれるのに。 

私のヨガの先生の話がとても心に残っている。彼女は、アルコール中毒の母親を持っていて、倒れているから来てほしいと電話があったとき、彼女が一番最初にしたことは3分間だけ目を閉じて心を整えることだった。そのとき、普通の人ならきっと、慌てて車に飛び乗ってアクセルをふんで駆けつける、ところだったろうと思う。でも彼女は、静かに心を整えてから車でお母さんのところにむかい、お母さんのところに着いたときには、感情に振り回されることなく、本当に静かに愛をこめて接することができた、このとき、ヨガを学んできたことに本当に感謝したと。

自分の身にふりかかること、周りに起きることと自分の間に、いつもスペースがあるということを忘れてはいけないな、と思う。

辛い状況の真っただ中にいる人の話を聞いて、辛い気持ちなんだなぁ、と共感しても、自分まで辛い気持ちになることはない。自分まで気分が落ち込んじゃうと、その人だって辛さが増幅して、もっとそこから這いあがれなくなってしまう。

本当は、誰だって、自分の現実を自分でつくっていく力があるのだから。

でも、それが真実かどうかを決めるのは、その人次第。私はそれを信じることを決めたから、それは私にとっての真実だけど、何を信じるかはその人次第。

共感しても、同調しない。それが、本当のやさしさかも。

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