人づきあい 卒業かな 04/04/2019 / とても影響をうけて、尊敬もしていた大学時代の恩師から、精神的に卒業した、と実感した日だった。 気づけば、恩師の言うことは、今まで基本的に全て正しいと思っていた。とても博識で、社会的弱者に対する慈悲深いまなざしと、社会悪やくだらない常識、といわれるものに対する痛烈な批判。少しでも世の中をよくしていきたいと長年地道にたゆまず行動されている姿、今まで、自分の考えたこともないような洞察の深さで自分に見えなかった世界を見せてもらったりもした。 ところが。 去年からの凄まじい意識の変容の中で、それも全く変わってしまった。 もちろん、この尊敬は変わることはない。 でも、彼を前にして、私は本当に変わったのだな、と強烈に自覚した。 私の真実は、他のどこでもない、私の中にある! 彼の真実と私の真実は違って当然なのだ。 人の真実は、自分一人一人が決めるものであって、自分よりも頭がいい、とか「えらい」と思える人に決めてもらうようなものではない。そして、自分にとって真実でないことは、お腹の感覚が、丹田が「違います」とざわざわしたり硬くなったりして教えてくれる。 どんなに偉い人が目の前に現れても、私はもう、誰かを上において自分を下においたりしない。 誰かを自分の上におくということは、同時に誰かを自分の下においているということじゃないか? それがいかにおかしいことだったかということに、今やっと気付いた。 一人一人がそれぞれに、この地球にそれぞれのテーマを背負って修行に来ている。そう考えると、一人一人がとてつもなく愛しく思えてくる。地球的な考えで、人を比べたりジャッジしたり、というのがいかにナンセンスだったか。 思えば、はじめてイギリスでは上司であろうがなんだろうが名前で同等に呼び合っている。そういう軽さが好きだなーと思う。 でも、いつも思うけど、私は日本での「〜さん」という呼び方がとっても好きだ。とってもニュートラルで優しいと思う。イギリスでは、知らないお客様とかをちょっと丁寧によぼうとすると、男なのか女なのか、そして結婚しているのかそうでないのか、あるいはそういう風に呼ばれるのを嫌う、少し「ムズカシイ」人なのか、女だったけど今は男になった人とか、女の格好をしている男の人とか、難しいケースはいっぱいあって、そういうのをぜーんぶ関係なく、その人をそのままの人として尊重して「〜さん」と呼ぶやわらかい優しい日本語、好きだな。と思う。 Facebook Twitter