• 人づきあい

    卒業かな

    とても影響をうけて、尊敬もしていた大学時代の恩師から、精神的に卒業した、と実感した日だった。

    気づけば、恩師の言うことは、今まで基本的に全て正しいと思っていた。とても博識で、社会的弱者に対する慈悲深いまなざしと、社会悪やくだらない常識、といわれるものに対する痛烈な批判。少しでも世の中をよくしていきたいと長年地道にたゆまず行動されている姿、今まで、自分の考えたこともないような洞察の深さで自分に見えなかった世界を見せてもらったりもした。

    ところが。

    去年からの凄まじい意識の変容の中で、それも全く変わってしまった。

    もちろん、この尊敬は変わることはない。

    でも、彼を前にして、私は本当に変わったのだな、と強烈に自覚した。

    私の真実は、他のどこでもない、私の中にある!

    彼の真実と私の真実は違って当然なのだ。

    人の真実は、自分一人一人が決めるものであって、自分よりも頭がいい、とか「えらい」と思える人に決めてもらうようなものではない。そして、自分にとって真実でないことは、お腹の感覚が、丹田が「違います」とざわざわしたり硬くなったりして教えてくれる。

    どんなに偉い人が目の前に現れても、私はもう、誰かを上において自分を下においたりしない。

    誰かを自分の上におくということは、同時に誰かを自分の下においているということじゃないか?

    それがいかにおかしいことだったかということに、今やっと気付いた。

    一人一人がそれぞれに、この地球にそれぞれのテーマを背負って修行に来ている。そう考えると、一人一人がとてつもなく愛しく思えてくる。地球的な考えで、人を比べたりジャッジしたり、というのがいかにナンセンスだったか。

    思えば、はじめてイギリスでは上司であろうがなんだろうが名前で同等に呼び合っている。そういう軽さが好きだなーと思う。

    でも、いつも思うけど、私は日本での「〜さん」という呼び方がとっても好きだ。
    とってもニュートラルで優しいと思う。イギリスでは、知らないお客様とかをちょっと丁寧によぼうとすると、男なのか女なのか、そして結婚しているのかそうでないのか、あるいはそういう風に呼ばれるのを嫌う、少し「ムズカシイ」人なのか、女だったけど今は男になった人とか、女の格好をしている男の人とか、難しいケースはいっぱいあって、そういうのをぜーんぶ関係なく、その人をそのままの人として尊重して「〜さん」と呼ぶやわらかい優しい日本語、好きだな。と思う。

     

  • 人づきあい,  自分づきあい

    共感しても同調しない

    私が本当に心地よくいることは自分の責任。

    それが一番大切な自分の仕事。

    本当の意味で心地よくいるときは、周りの人も自然に心地よくなるもので、自分ひとりが気持ち良ければ周りがどれほど迷惑でも関係ないというものじゃない。

    でも、相手が苦しんでいたり、悲しんでいたり、辛い思いをしているとき、自分だってうれしくない。

    世の中にはひどいことや悲しいことがたくさんあふれているのに、それに目をつむって、自分ばかり心地よくいることに集中しているのは、自己中心的ではないのか?人が苦しいときに、自分が幸せでいることに集中しているのは冷たい?何かしてあげないといけないんじゃないか?

    そんな風に、無意味に罪悪感を感じがちなのはどうしてだろう。

    罪悪感って何だ?私のせいでこの人は辛い思いをしている、とか、私がもっとこうしてあげたら、この人はもっと幸せになれるかもしれないのに。でも、その裏には、私がしていない、あるいは私がしていることが相手の人の幸せを左右してしまうほどに、その人が無力な存在だと思っているのではないか?

    罪悪感って実は傲慢かも。

    私ができることは、自分の中を整えることしかないのに。自分の中を整えることでやっと相手の力になれるのに。 

    私のヨガの先生の話がとても心に残っている。彼女は、アルコール中毒の母親を持っていて、倒れているから来てほしいと電話があったとき、彼女が一番最初にしたことは3分間だけ目を閉じて心を整えることだった。そのとき、普通の人ならきっと、慌てて車に飛び乗ってアクセルをふんで駆けつける、ところだったろうと思う。でも彼女は、静かに心を整えてから車でお母さんのところにむかい、お母さんのところに着いたときには、感情に振り回されることなく、本当に静かに愛をこめて接することができた、このとき、ヨガを学んできたことに本当に感謝したと。

    自分の身にふりかかること、周りに起きることと自分の間に、いつもスペースがあるということを忘れてはいけないな、と思う。

    辛い状況の真っただ中にいる人の話を聞いて、辛い気持ちなんだなぁ、と共感しても、自分まで辛い気持ちになることはない。自分まで気分が落ち込んじゃうと、その人だって辛さが増幅して、もっとそこから這いあがれなくなってしまう。

    本当は、誰だって、自分の現実を自分でつくっていく力があるのだから。

    でも、それが真実かどうかを決めるのは、その人次第。私はそれを信じることを決めたから、それは私にとっての真実だけど、何を信じるかはその人次第。

    共感しても、同調しない。それが、本当のやさしさかも。

  • 人づきあい,  自分づきあい

    「いい人」の罠

    「いいひと」という概念に、ずっとあやしげなものを感じてきた。

    子供に対して使う「いい子」という言葉にも感じる、不愉快な感覚。

    「いいひと」って何?「いい子」って何?

    「あの人はいい人だ」と誰かが言うとき、イメージするのは、穏やかで平和で善良でにこやかに人のことを考えて生きる人。ボランティア活動とかもたくさんしているかもしれない。

    この「いい人」という概念に不快さを感じるのは、ただ私がひねくれているから?反発心がむくむくと湧き上がる。人間は状況次第でどんなことをするか全くわからない存在なのに。

    で、わかった。この不愉快の意味が。

    「いい人」は「正しい」ことをしているからなのだ。で、私はこの「正しさ」に反発している。「正しい」って何よ。世間の常識とか、「こうするべき」に沿っている。でも、世間の常識や「こうあるべき」「こうするべき」というものほど、怪しいものはないと私は思う。どうして、他人の「正しい」に合わせて生活していかなくてはいけないのか。世間の「正しい」に合わせると、自分が苦しくなる。そして、苦しいままで世間の正しさに無理矢理合わせていい人をよそおったりしていると思ったら、突然周りに爆発したりする。

    「私はこんなにやってあげているのに。」

    こんな風に生きている人に最近、よく気づくようになった。初対面の頃は、こんなに善良ないい人が存在するんだ!と、素直な私は簡単に感動したりしていた。ボランティア活動にもよく取り組み、いつも穏やかで自分のことよりいつも相手のことを優先して考えて。でも、一緒にいるうちに少しづつ気づいていくのは、どうも犠牲者になりたがるんだな、ということ。犠牲者になって、相手を自動的に悪者にしている。

    自分の気持ちをうまく伝えられなかったとき、相手を悪者にして、自分は被害者になりがちである。ということを最近、大発見した!

    「こんなにやってあげているのに」って、そうするように頼まれたのか?自分で、そうしようと決めたのじゃなくって?

    やりたくなかったのなら、しなければよかったのに!自分でやろうと決めて、あとで誰も感謝してくれない、って怒るなんてちょっと迷惑。とっても重いんですけど。

    と言いながら、私もちょっと夫に対してそんなことをしていた時代があった。

    いつも仕事で疲れている夫が少しでも朝ゆっくり寝ていられるように、ベッドまで毎朝朝食を運んでいってあげていた。それが日課になっていたので、ふつうにもう朝食はベッドで食べられるものだと思っている夫にどんどん腹がたってきた。もうちょっと感謝したらどうなのよ!私だって眠いんだから!

    今から考えると、何をやっていたんだろう?とつくづくおかしい。

    ぷんぷんして朝食を持ってきてもらったって、何もうれしいことはなかったのに。今は、冷静に考えて、素直に、持っていってあげようかな、と思ったときだけ気持ちよく持っていってあげるようになった。で、疲れているときは、私が寝ているうちに知らないうちに仕事に出かけていたりもする。昔だったら、ものすごく申し訳ない気持ちになっていたところ、今はそんなことは全然ふつうになってしまった!

    それは「いい妻」を演じるのをやめたから。自分がやりたい、やろうと思ったことだけしているから。

    楽ちんで自由。

    「いい人」でいるよりも、自由で楽しい方がずっといい。